「一体、どういうことなんですか!?」病室の廊下に出ると、警部補は担当主治医に詰め寄った。「あ、あの。私の専門は外科なので説明を求められても困るのですが……」白髪交じりの男性医師は壁際に追い詰められている。「それじゃあ専門の医師をここに連れて来て下さいよ! あのままじゃ取り調べなんて出来っこないじゃないですか!」「そんなことを言われましても本日は心療内科の医師が不在の日なので……」「はあ? 病院は24時間いつでも対応出来るものじゃないんですか? 我々警察だって24時間いつでも対応できる準備をしてるんですよ!?」「医者と警察を一緒にしないで下さい!」「何だと!」「警部補、落ち着いてください! すみません、先生。血の気が多い方なので……」若い警察官は必死になって2人の間に入って止めに入った。「とにかく家族に連絡を取って下さい! 私たちだって困っているんです。精神は幼児返りしてしまっているし、頸椎損傷と言う大怪我を追ってるので今コルセットで固定していますが、これから大きな手術をしなくてはならないので親族の同意書が必要なんですから!」医師は大きな声をあげた——**** あの騒ぎから約1時間後― 病院の談話室で警部補と部下はコーヒーを飲んでいた。「それにしても長井には驚きましたね。自分の犯した罪を逃れる為に演技をしてるんでしょうか?」部下が質問してきた。「いや。それは多分無いな。とても演技している様には見えなかった。」つい先ほどまでの長井とのやり取りを警部補は思い返した……。****『長井、里中って男を知ってるか? お前の親友だと言ってるが?』警部補は長井の枕元に椅子を持って来ると、そこに座り質問した。『誰? 里中って人はどんな人なの? 親友って……お友達のこと?」『お前が出入りしていた病院のリハビリスタッフの男だ! ずっと嫌がらせの無言電話をかけていただろう!?』『うう……このおじちゃん、怖いよお……』長井は再び目に涙を溜めながら怯えている。『それじゃ質問を変える。この人物は分かるだろう? お前がストーカーしていた女性だ』里中が持っていた千尋の写真を見せると長井の目の色が変わった。『やはり、今まで演技していたな!?』しかし……。『うわ~綺麗なお姉ちゃんだねえ。僕、大人になったらこのお姉ちゃんと結婚したい! ねえ
仕事が一段落し、遅めの昼休憩に入ろうとしていた里中を主任が呼び止めた。「里中、ちょっといいか? お前に電話がかかってきているんだが」「電話の相手って誰なんですか?」里中は受話器を受け取りながら尋ねた。「警察からだよ」「え?」(まさか長井の目が覚めたのか?)逸る気持ちを抑えながら里中は受話器に耳を当てた。「お電話替わりました、里中ですが。……はい……はい。え!?……そうですか。分かりました。後程そちらに伺います。え? 迎えに来てくれるんですか? ありがとうございます。連絡お待ちしています」やり取りの様子を野口はじっと見つめ、里中が受話器を切ると尋ねた。「警察の人、何だって?」「長井の目が覚めたそうです。俺にどうしても今日会わせたいって言ってきました。仕事が終わる時間に迎えに来るって言われました」「そうか……」「俺、まだ信じられないんですよ。あの長井がストーカー行為をしていた挙句の果てに、二度と歩けない身体になってしまうなんて。どうしてあんな事をしたのか、はっきりアイツの口から聞きたいんです。千尋さんにも怖い思いをさせ、俺にも嫌がらせの無言電話をかけてきてるのに、どうしてもアイツを憎むことが出来なくて……。俺って変ですか?」野口は黙って聞いていたが、やがて口を開いた。「やっぱり里中、お前っていい奴だな」「え?」「考えても見ろ、普通の人間だったら自分が親友だと思っていた相手にこんな裏切行為をされれば憎しみに替わると思うぞ? でもお前は、そうはならなかった。純粋な人間だってことだよ」「い、いや……単純馬鹿なだけですよ」里中はポリポリと頭を掻く。「里中、お前今日は早めに上がっていいぞ。警察にも連絡いれておいたらどうだ? 警察の方でも早めに協力して欲しいと思っているだろうから。17時にはあがっていいからな」「はい! ありがとうございます」野口に言われ、里中はあの後警部補に連絡を入れた——****—―17時仕事を終えた里中が職場から出てくると、既に病院の前にパトカーが待機していた。「里中さんですね? どうぞお乗りください」運転していたのは初めて見る警察官だった。「ありがとうございます」お礼を言って乗り込むとパトカーが走り出す。里中は窓の景色を眺めながら千尋のことを考えていた。「すみません、電話をかけてもいいですか?」
「渡辺さん、さっき電話がかかってきてたみたいだけど何の電話だったの?」接客を終えた中島が渡辺に尋ねた。「山手総合病院の里中って人から千尋ちゃんのことを聞かれたの。お休みだから伝言があれば伝えますって言ったけど大丈夫ですって断ってきたけどね」「え? 里中さんからだったの? 青山さんが休みだってこと知らないから電話してきたのね。何か進展あったのかしら……?」「千尋ちゃん、ヤマトがいなくなってさぞ心配でしょうね」渡辺がぽつりと言った。「本当にね……」「あ、店長こちらにいたんですね」突然男性が顔を出してきた。新しく雇った店員で年齢は29歳。千尋のストーカー事件をきっかけに中島は男性を起用したのであった。「ここの納品書で確認したいことがあるのですが」「分かった、原君。すぐに行くから」「お願いします」原と呼ばれた男性は、すぐ店の奥に顔を引っ込めた。「原さんて中々働き者ですよね」渡辺が言う。「そりゃそうよ、私が面接して決めたんだから。さて、仕事に戻りますか」「そうですね 」その時、自動ドアが開いてチャイムが鳴り響く。「「いらっしゃいませ!」」中島と渡辺は声を同時に揃え、接客へと向かった——****一方、その頃里中はパトカーを降りて警察病院の前に立っていた。「長井……」「里中さん! お待ちしてました」警部補自ら里中を出迎えに病院から出て来た。 「いや~すみません。わざわざご足労頂いて」並んで歩きながら警部補が話しかけてきた。「いえ、それより長井の目が覚めたって電話で教えて貰いましたが、どうですか? アイツの様子は」「いや~それが実はですね……ちょっと色々ありまして……」言葉を濁す警部補。「どうかしたんですか? アイツ、千尋さんにストーカー行為をしていたことを認めたんですか? それに自分がもう歩けなくなったことは話してあるんですよね? アイツが自分の罪を認めて改めるなら、俺は長井を自分の患者として受け入れてリハビリの訓練をさせたいと思ってるんです」「……」警部補は里中の話を黙って聞いている。「どうしたんですか? 何かありましたか?」里中は警部補の様子がおかしいことに気が付いて声をかけた。「里中さん、いきなり長井に会うと驚かれるかもしれないので、事前に伝えておきます。実は、長井は……」ガシャーンッ!! その時
床には割れた花瓶の破片と花が散らばり、びしょ濡れに濡れている。ベッドの上には顔を真っ赤にして涙でぐしゃぐしゃになりながら泣きじゃくっている長井がいた。周りにいる警察官達は引っかかれでもしたのか顔や手首などに赤い筋があり、血が滲んでいる。「皆出て行ってよーっ! うわーん! ママーッ!! どこにいるのー!?」「な、長井? お前、一体どうしたんだ?」里中はゆっくりと長井に近づこうとすると、今までにない程の憎悪のこもった目で睨まれた。「誰だ! お前は! 僕の前から消え失せろっ!!」長井は手元にあった時計を里中に向けて投げつけた。咄嗟によけた時計は激しい音を立てて床に落ちる。「だ、駄目です里中さん! ここは一旦引きましょう!」呆然とする里中の腕を引っ張ると警部補は強引に部屋の外へ連れ出した――「すみません! 警部補! 自分の見込み違いでした!」里中に会わせてみたらどうかと提案した警察官が頭を下げた。「むう……。いや、気にするな。長井の今の状態は誰の手にも負えないだろう」警部補は腕組みしながら唸る。「どういうことなんですか? 長井に何があったんですか? 説明して下さいよ!」里中は警部補に問い詰めた。「実は医者の話によると長井は幼児退行を起こしてしまったらしいんです」「幼児退行?」「原因はまだ分かっていませんが、例えば強いストレスやショック等の様々な原因により発症すると言われている精神疾患です。長井の場合、歩道橋から落ちて頭部を強打したのが原因か、もしくはその前に何か強烈なショックを受けて、あのような状態になってしまったのか……。まともに事情徴収出来る状態じゃないんです。おまけに誰がしゃべったか分からないが、二度と歩けない身体になったと本人に告げたようだし。こちらとしては長井が元通りになってから話すつもりだったのに……」警部補は深いため息をついて、里中を見た。「あなたに会わせれば、長井が元に戻るかと思ったのですが、逆効果だったみたいですね。かえって興奮させてしまったようだ。先程医者に注意されましたよ。大事な手術が控えているのにこれ以上患者を混乱させるなって」「……」里中は黙って話を聞いている。「とりあえず、長井の両親とは連絡が取れましたよ。実家が北陸のようで明日にはこの病院に着くそうです。」「長井の両親には全て話したんですか?」
夜の帳が下りて来た。すっかり暗くなってしまった部屋で千尋は膝を抱えて座ってる。警察官が帰った後、千尋は必死でヤマトを探し回った。長井が倒れていたという歩道橋の下にも行ってみたし、初めてヤマトと会った場所もくまなく探した。そして保健所まで捜しに行ったが、結局ヤマトを見つけることは出来なかった。もしかすると自分が不在の時に家に帰ってきているのではないかと思い、急いで帰宅してみれば予想は見事に覆された。 目の前にはヤマトの餌と水が置かれている。「ヤマト……」千尋は今日1日一切食事をとっていなかった。祖父が亡くなってから1日たりとも側を離れなかったヤマトがいない。胸にぽっかり穴が空いてしまったかのようだ。好きな料理を作る気力も残っていなかった。「どこへ行ってしまったの? ヤマト……あなたまでいなくなったら私本当に独りぼっちだよ……」千尋は肩を震わせて泣き続け、やがて疲れ果ててそのまま眠りについてしまった。「う……ん……」眩しい朝日が千尋の顔に当たった。「え?」千尋は慌てて飛び起きると自分の今の状態をぼんやりと考えた。「確か、昨夜はヤマトが帰って来るのをこの部屋で待っていて……それでそのまま眠ってしまった……?」時計を見ると6時を指している。床で眠ってしまった為、身体中がズキズキと痛む。「……取り合えずシャワー浴びよう……」ノロノロと起き上がり、着替えを自分の部屋から取ってくると脱衣所で服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びて着替えた。「食欲……無いな」昨日から何も口にしていないが、何かしら食べないと。そう思った千尋はバナナをカットしてガラス容器に入れると冷蔵庫から無糖のヨーグルトに蜂蜜をかけた。「いただきます」手を合わせ、ゆっくりと口に運ぶ。たった1人きりの食卓がこれ程寂しいものだとは思わなかった。「私って……こんなに寂しがりやだったんだ」千尋はポツリと呟いた。本来なら今日も仕事を休んでヤマトの行方を捜したかった。けれどもいつまでも店を休んで職場の皆に迷惑をかけるわけにはいかない。それに働いていれば寂しさも紛れる。「今日は出勤しよう」千尋は簡単な朝食を済ませ、片付けを終えると中島の携帯にメッセージを送った。『本日は出勤します。ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした』(お弁当、作り損ねちゃったからコンビニに寄ってから出勤
パートの渡辺は本日休みの日になっていたので、千尋はその分も接客やら配達等で退勤時間まで一生懸命働いた。常連客は久々に見る千尋の姿に喜び、多めに商品を購入していく客もあった——**** 1日の業務が終わり、シャッターを閉めた後中島は千尋に尋ねた。「青山さん、今日はこの後どうするの?」「本当はすぐにでもヤマトを捜しに行きたいところですが、家に帰ってヤマトを待ちたいと思います。家に戻ってきた時私がいないとヤマトが寂しがるので」「そう……ねえ、青山さん。ビラを作ってみる気はない?」「ビラですか?」「うん、ビラ。ヤマトの写真入りのビラを作るのよ。この犬を探しています。お心当たりの方は連絡を下さいって。連絡先はフロリナ>にして。この店にもビラを貼ってあげるから」「いいんですか?」「勿論、だってヤマトはこの店のマスコット的存在だったんだから。他にも得意先のお店とかにお願いして貼らせてもらうのよ」千尋の表情がパアッと明るくなった。「店長、それすごく良いアイデアですね! 是非お願いします!」「任せて、知り合いの人でDTPデザイナーの人がいるからビラを作ってもらえないか頼んでみるね。それじゃ、帰りましょうか?」「はい!」 中島は千尋と別れた後里中に電話をかけた。何回かの呼び出し音の後、里中が電話に出た。『はい』「もしもし、中島です」『こんばんは。連絡くれたんですね。千尋さんの様子はどうですか? ヤマトは見つかったんですか?』「それがまだ見つからないのよ。でもヤマトを探すビラを私が知り合いに頼んで作って貰おうかと思ってその話をしてみたらすごく喜んでくれたの」『俺にもヤマトを探すの手伝わせて下さい』その話に中島は驚いた。「大丈夫なの? 長井の面会に行くんじゃなかったの?」『もう長井とは会いません』「どうして? 何があったの?」『あいつ……頭がおかしくなってしまったんです。もう俺が誰かも分からなくなっていました。それどころかすごく憎まれているようで警察からも長井とは今後会わないように言われました。俺がいると余計長井の具合が悪化するって』「そうだったの…」『時間が取れる限りヤマトを探す手伝いをしたいので、ビラが出来上がったら俺にも分けて下さい。お願いします』「本当にお願いして大丈夫?」『はい。うちの病院の患者さん達もヤマトに会いた
12月に入り、世間はクリスマス一色に染まっていた。<フロリナ>でもクリスマス用にアレンジされた植木鉢や小ぶりなもみの木、ゴールドクレスト、リース等が店頭に並び、それらを買い求める客で店内は賑わいを見せ、千尋をはじめ店員たちは対応に追われていた。 ようやく客足が途絶えたのは13時を回っていた。「青山さん、原君、遅くなったけど昼休憩に入っていいわよ」「え? 俺も青山さんと同じ時間帯に昼休憩入っていいんですか?」原は首を傾げた。「大丈夫よ、気にしないで行ってきて」「良かった~腹が減ってどうしようもなかったんですよ。助かります!」言うが早いか、原はエプロンを外すとすぐに外へ食事をしに行ってしまった。「店長はどうするんですか?」千尋は尋ねた。「あ~私は昼休憩はいいわ、でも3時のおやつ休憩は多め長めに取らせてね」「分かりました。それじゃお昼行ってきます。休憩室にいるので何かあったら呼んでくださいね」「あら、いいってば。お昼休みはしっかり休んで。そうじゃないとブラック企業なんて世間で言われちゃうから」中島は冗談めかして言った。「はい、では遠慮なくお昼休憩取らせていただきます」クスリと笑うと千尋は休憩室へ入っていった。 休憩室は広さ6畳ほどの部屋で、木目調の丸い食卓テーブルセットと食器棚が置いてある。壁際にはソファベッドも置かれて居心地の良い空間になっている。電子レンジやポット、ガス台に流し台もあるのでちょっとした料理も出来るので非常に便利である。千尋はヤカンでお湯を沸かすと、食器棚からペーパーフィルターとドリッパー、それに昨日コーヒーショップで挽いてもらったコーヒーをセットしてお湯を注いだ。部屋中にコーヒーの良い香りがする。「そうだ! 店長にもコーヒー淹れて持って行ってあげよう」食器棚に置かれている中島のコーヒーボトルを取り出すと千尋は慎重にコーヒーを注いで蓋を閉めた。店の様子を覗いて見ると中島は丁度接客中だったので千尋は一度顔を引っ込めてメモを書いた。<コーヒーを淹れたのでお手すきの時にどうぞ —青山>メモとコーヒーボトルを店内に置かれているデスクに置くと、休憩室に戻った。今日のランチは手作りのサンドイッチである。バゲットにレタスやハム、キュウリを挟んだもの、もう一つはスクランブルエッグを挟んだバゲットだった。「いただきます」
この2か月の間に様々な事があった。千尋をストーカーしていた長井の元へ両親は事件後、警察に呼ばれて上京してきた。特に母親は変わり果てた息子を見て、その場で泣き崩れてしまったと言う。その後、息子の手術に必要な書類の同意書にサインをし、無事に手術が終了すると長井を車椅子に乗せて地元北陸へ戻って行った事を千尋は警察官から聞かされた。結局、長井は重度の精神疾患で責任能力が無い。と言うことで罪に問われることは無かった。警察の話によると、未だに長井は精神状態が回復することは無いばかりか、ますます意思疎通が出来なくなってきていると言う。しかも白い犬に対して異常なほどの恐怖心を抱いているらしい。(一体、ヤマトとあのストーカー男性との間でどんなことがあったんだろう……。あんな状態で無ければ人づてにヤマトのことを聞けるのに)時々、千尋は考える。あの時自分にもっと勇気があればヤマトがいなくなってしまう事態にならなかったのでは無いかと。「ヤマト……」千尋はポツリと呟いた——****「里中、クリスマスイブの日、何か用事あるか?」仕事が終わり、ロッカールームで着替えをしていると、後から入ってきた近藤に声をかけられた。「何すか? 先輩。別に用事なんか無いですけど。って言うかそれ分かってて聞いてますよね、絶対!」里中は仏頂面で言った。「いやあ~実はこの日、彼女とデートなんだ。悪いけど俺と遅番変わってくれないかと思って。お前、確かこの日は早番だったよな? やっぱりクリスマスイブって特別なものじゃん? 昨日奇跡的にお洒落なイタリアンの店の予約を取ることが出来たんだよ! この店、すごく人気あるんだ。彼女に予約取れたこと話したら大喜びしてたぜ。男なら彼女と二人でロマンチックなクリスマス祝いたいって誰だって思うだろう? な? 頼むよ」パンッと近藤は手を合わせ、里中を拝むような態度を見せた。「……じゃ、条件があります」「ん? 何だ? 条件って?」「明日の夜、俺に酒奢ってくれたら替わってあげますよ!」「な~んだ、そんなことか。いいって、いいって。俺とお前の仲だ。好きなだけ奢ってやるよ!」「いいんですか? 先輩そんなこと言って。俺、浴びるほど飲みますよ?」「おう! 望むところだ!」有頂天になってる近藤を尻目に里中は深いため息を吐いた。「あ~俺も彼女欲しい……」正直な
—―9時「はあ~」里中は備品の整理をしながらいつにもまして大きなため息をついていた。「どうしたんだ里中。元気が無いようだぞ? 今日は近藤もいないんだから頑張ってくれよ?」リハビリ器具の点検をしていた野口が声をかけてきた。「え? 先輩、今日は休みなんですか?」「うん、何だか頭が痛くて体調が悪いから休ませてくれって今朝連絡が入ったんだ。風邪でも引いたのかな?」「他に何か先輩言ってませんでしたか?」里中は昨夜、近藤が無事に家に帰れたのか少しだけ気になっていた。「いや? 特には何も言ってなかったぞ? だけど随分具合が悪そうな声を出していたからな……。帰りに様子でも見に行ってみるか?」「大丈夫ですよ、先輩付き合ってる彼女がいるんですから。きっと面倒見に行ってくれますって。逆に行くと2人の邪魔になりますよ」(先輩の名誉の為にも二日酔いで仕事を休んだなんて知られたくないだろうからな)「ふ~ん、そうか。で、里中。お前はどうしてため息なんかついてたんだ?」「……主任。ちょっと聞いてもいいですか?」神妙な面持ちになる里中。「どうした?」「男女が見つめあってる時ってどんな時なんでしょう?」「は?」「人混みの中で見つめあうって、どんなシチュエーションの時なんでしょうか!?」「な、何だ? 急にそんな質問して……。まあお互い、どんな表情で見つめあってるか次第で色々と状況が変わって来るんじゃないか?」「それじゃ、例えば相手の男が女の子を笑顔で見つめていて、女の子の方は驚いた感じで男を見ている……」「随分具体的な話だなあ? だが俺の考えでは、これから2人の間には新しい関係が始まるって気がするんだけどなあ?」「何ですかっ!? 新しい関係ってどういう意味ですか!?」里中は主任に詰め寄ると胸元を掴んだ。「うわ! 何だよ急に! お前、それより仕事に戻れってば!」………その後暫くの間、里中を落ち着かせるのに野口は随分時間を費やしてしまったのであった――**** その頃、<フロリナ>ではちょっとした騒ぎが起きていた。「ええ~っ! 千尋ちゃん、ついに男の人と同棲始めたの?!」渡辺が驚きの声をあげた。「違いますってば、新しい仕事と住むところが決まるまでの居候ですよ」出勤後、千尋と渚が一緒にやってきたのを見て真っ先に質問してきたのは中島であった。店をオ
渚が後片付けをしている最中に千尋は昨夜洗っておいた洗濯物を日当たりの良い和室に干していた。「渚君がいるから洗濯物外に干しておいてもいいかなあ?」干し終えて、ポツリと呟いた時。「うん、大丈夫。洗濯物乾いたら僕が取り入れておくから外に干しなよ」「え!? い、いたの?」いつの間にか片付けを終えた渚が千尋の近くにいた。「うん、今来たところだよ。ごめん、驚かせちゃったかな?」「ううん、大丈夫だよ。それじゃ、お願いしていい?」「うん。ついでに畳んでおくよ」「それは大丈夫だから!」そこだけ千尋は強調した。若い男性に自分の下着まで畳ませるわけにはいかない。「? 遠慮しなくていいのに……」渚は不思議そうな顔を浮かべると部屋から出て行った。(渚君て、時々まだ子供の様な言動するよね……不思議な人)千尋は渚の後姿を見ながら思った——****「ねえ、渚君。本当にお店まで付いて来るの?」並んで歩きながら千尋は渚を見上げた。「勿論、昨日お店の人達にきちんと挨拶出来なかったからね」渚はどこか嬉しそうにしている。その時、2人の前にを白い犬を連れた年配の男性が現れ、千尋の足が止まった。千尋はじ~っと犬を見つめている。「千尋?」渚が声をかけた。「ヤマト……」「どうかしたの? 千尋?」千尋の目は前方の犬を捕らえている。「あの犬がどうかした?」「あ、ごめんね。私、つい白い犬を見ると……。前に飼っていた犬のこと思い出しちゃって。私ね、前に白い大きな犬を飼ってたの。ヤマトって名前だった。お爺ちゃんが亡くなった後もずっとヤマトは側に居てくれたんだけど……。でも2か月前にストーカーが家に侵入してきた時にヤマトが犯人を追い払って、そのまま後を追いかけて行ったきり姿を消してしまったの」そして千尋は目を伏せた。「千尋……」「今、何処にいるんだろう。寒い思いしていないかな、どうして戻ってきてくれないんだろうって思うと、私……」最後の方は消え入りそうな声だった。「千尋はまだ、その犬のことが忘れられないんだね」しんみりとした声で渚が尋ねる。「1日たりとも忘れたことなんか無いよ。だって大切な家族だったんだから」「……きっとヤマトは世界一幸せな犬だったと思うよ。こんなに千尋に思われてるんだから」渚はまるで何処か痛むかのように切なそうに笑った。「え……?」
朝日がカーテンの隙間から千尋の顔を照らした。「う……ん眩し……」まだぼんやりした頭で目覚まし時計を見ると6時半を差している。「え? 目覚まし鳴らなかったのかな?」今日は千尋の早番の日。この時間ならまだお弁当を作る余裕がありそうだ。慌てて着替え、台所に向かうと味噌汁の良い香りがしていた。台所を覗くと渚が料理を作っている最中で千尋の気配に気が付き振り向くと、笑顔で挨拶してきた。「おはよう、千尋」「! 渚君……。まさか、朝ご飯作ってくれてたの?」「朝ご飯だけじゃないよ。ちゃんとお弁当も用意したからね。中身は内緒。開けてからのお楽しみだよ」テーブルの上にはランチバックに入ったお弁当が置かれている。「あ、ありがとう……」お弁当を作って貰ったことが嬉しくて千尋は顔を綻ばせた。「よし、準備出来た。さ、千尋座って」渚は千尋の為に椅子を引いた。「それじゃ……」千尋が遠慮がちに座ると、渚は木目のお盆に乗せた料理をテーブルに運んで来た。豆腐とわかめの味噌汁に焼き鮭、だし巻き玉子、おひたしに漬物にご飯。これ等がセンス良く盛り付けられている。千尋は驚嘆の声をあげた。「ごめん、千尋。勝手に冷蔵庫の中身使ってしまったけど、足りない食材は今日僕が買って来るからね」 「うううん、そんなこと気にしないで。と言うか、かえって悪いよ。こんなに素敵な朝御飯用してもらって。それにお弁当も作ってくれるなんて」「だって僕が千尋に喜んで貰いたくて勝手にやったことなんだから気にしないでよ。でも、嬉しいな。千尋の笑顔が見れて」相変わらず笑顔を向けてくる渚に、千尋はどう対応して良いか分からず困ってしまった。「た、食べましょ。渚君も一緒に」2人で向かい合わせに座ると手を合わせた。「「いただきます」」渚の作った料理はどれも絶品だった。味噌汁とだし巻き玉子は出汁からわざわざ作ったようで良い香りがする。おひたしも丁度良い味加減だった。「美味しい! 本当に料理上手だったんだね」「ありがとう、ここに居候させて貰ってる間は僕が料理を作るからね」「そんな、それじゃ悪いわ」「僕が千尋の為に作ってあげたいんだ。駄目かな?」切なそうに見つめられると、もうこれ以上千尋は断ることが出来なくなってしまった。「え~と、それじゃこれからお願いします」「勿論、任せて!」パアッと明るい笑顔
2人が家に着いたのは21時半を過ぎていた。「渚君、どうぞ」「お邪魔します」渚は遠慮がちに上がってきた。「ここ、お爺ちゃんの使っていた部屋なの。今夜からこの部屋を使って」千尋は部屋に案内した。「寒いね~。今エアコンつけるね」リモコンで電源を入れ、風呂を沸かしに行って部屋に戻ると渚が雨戸の戸締りをしてくれていた。「ありがとう、渚君」「これから居候させてもらうんだから、何でも手伝うからね。明日から僕が料理をするよ」「え? 料理出来るの?」「うん、調理師免許も持ってるよ。僕はカフェの店員だったんだ」渚があげた店の名前は料理も提供する有名なチェーン店だった。「そうだったの、あの店の料理凄くおいしよね~」「うん、でも今日あの店で食べた料理も美味しかったよ。また一緒に行こうよ」「そうだね、また今度行こうか?」その時。「あのね、千尋……」「何?」「しばらくの間、千尋が仕事に行く時に僕も付いて行っていいかな?」「え? 別に私は構わないけど……何故?」「千尋に何かあったら大変だからね。僕が側に居る限り、絶対に千尋を危険な目に遭わせたくないからだよ」「ちょっと大袈裟じゃない? もうあれから怖い思いしてないけど?」「……そんなの分からないじゃないか」急に渚は真剣な表情になる。その瞳は微かに揺れているように見えた。「渚君。どうしたの?」「千尋のお爺さんとも約束してたんだ。もし僕が千尋と会う事になったら絶対に守ってあげてくれって」「え? お爺ちゃんから?」まさか祖父が渚とそのような約束を交わしているなんて意外であった。「そう、だから僕の気の済むようにさせて?」渚は笑みを浮かべた……。**** お風呂が沸くと、千尋はタオルとバスタオルを出してきて渚に渡した。「渚君、着替えはあるの?」「うん、勿論。このリュックに入れてきたよ。あ……でもパジャマを持って来るのを忘れてきちゃったなあ」「それなら、お爺ちゃんの浴衣が残ってるから貸してあげる。浴衣ならサイズ大丈夫だと思うから」千尋は祖父の衣装ケースから浴衣を探しだすと持ってきた。「はい、これを着てね」「あ……この浴衣……」渚は浴衣を受け取ると目を細める。「この浴衣がどうかしたの?」「い、いや。この浴衣僕のお爺ちゃんが着ていた浴衣によく似てたからちょっと驚いただけだよ」
「僕もね、千尋と同じでお爺ちゃんに育てられたんだ」「え?」「でも、もう高校を卒業する前に死んじゃってるんだけどね」千尋は黙って話を聞いている。「その後は千尋のお爺さんが僕のこと、色々気にかけてくれたよ。すごく感謝してる。でもある時突然連絡が取れなくなったから今日、会いにきてみたんだよ。……でも亡くなっていたんだね。近所の人に聞いたよ」「そうだったの……」その時。「お待たせいたしました」二人の間に料理が運ばれてきた。「うわあ、美味しそう! 食べよう、千尋」「う、うん」「いただきます」渚は手を合わせた。「あ、渚君も御飯食べる時手を合わせるの?」「うん。まあね」「そっか、私と同じだね」千尋も手を合わせていただきますと言うと料理を口に運んだ。その様子を渚はじっと見つめている。「な、何?」「夢みたいだなって思って」「何が?」「千尋と向かい合って食事することが出来る日が来るなんて夢みたいに幸せだな~」「!」千尋は思わずむせそうになった。「大丈夫? 千尋。ほら、お水飲んで」渚は慌てて水の入ったコップを差し出した。「い、いきなり何言うの?」千尋は水を飲みこんだ。「え? 何が?」渚はポカンとしている。「だから、私と食事するのが夢みたいに幸せだって言ったこと」「うん。だって本当のことだから。思いは口に出さなくちゃ伝わらないでしょ?」純粋な目で見つめられると千尋はもう二の句が継げなくなってしまった。「もう、渚君も食べて。料理冷めちゃうよ」「そうだね。僕も食べよっと」おいしい、おいしいと笑顔で言いながら料理を口にする渚はまるで子供の様に思えたが、渚といると何だか心地よく感じた。(どうしてなんだろう? 今日初めて会った人なのに……)****「ふぅ~美味しかったね」食事が終わると渚は満足そうに言った。「うん、そうだね。……やっぱり誰かと一緒の食事っていつもより美味しく感じるかもね」千尋の言葉に渚は目を輝かせた。「そうだよね!? 千尋も僕と一緒に食事して美味しいって思ってくれてるんだね」「う、うん」「今日、千尋の家に行ったあと、働いている花屋に行ったんだよ」渚は急に話を変えた。「うん。お店の人から聞いた」「前に悪い男に付きまとわれて怖い思いしたんだよね」「その話も聞いたの?」「勿論。ねえ、千尋にお願
「あの、間宮さん……?でしたっけ?」「渚でいいよ。千尋」相変わらずニコニコと笑って青年は千尋を見つめている。「あなたは私を知ってるんですか?」以前のストーカー事件のこともあるので慎重に尋ねた。「うん、千尋のことはよく知ってるよ。ねえ、まだ夜ご飯食べてないよね? 僕どうしても君と一緒に行きたいお店があるんだ。話はご飯の後でもいいでしょう?」年齢の割にあどけない話し方をする渚を見て、千尋は少し警戒心を解いた。それに人混みの中で話をする方が身の安全を図れる。「そうですね。では行きましょう」千尋は頷いた——**** 2人の様子を里中は物陰から盗み見ていた。「あの男、誰だ? 2人の間に微妙な距離感を感じるから彼氏っていう感じでも無さそうだし……。あ! 何処かへ行くみたいだ」里中はの後をつけようとして、足を止めた。「何やってるんだ、俺。これじゃストーカーしてた長井と同類じゃないか……。やめた、帰ろう」里中は踵を返すと2人とは反対に背を向けて帰って行った。酔いはとっくに冷めてしまっていた。(くそっ……面白くない)むしゃくしゃする気持ちで、里中は人混みに消えて行った――**** 渚は鼻歌を歌いながら千尋の前を歩き、時折千尋の方を振り向いては笑顔で笑いかけてくる。(何だかすごく人懐こい男の人だな……)程なく歩くと渚は足を止めた。「ほら、ここだよ」そこは昔ながらの洋食亭だったが……。「あ、ここは……」千尋は思わず声に出していた。この洋食亭は生前、祖父と何度も一緒に食事をしに来ていた店であった。けれども祖父が亡くなってからは一度も千尋はこの店を訪れることは無かった。「ほら、千尋。早く入ろう」渚は促すとドアを開けて千尋を先に中へ入れる。テーブルに着くと渚はメニューを千尋に手渡してきた。「ねえ、千尋はいつも何を食べてたの?」「え……と、私は大体いつもオムライスを注文していました」「そっかー。じゃあ僕はそれにしよう! 千尋が食べてた味がどんなのか知っておきたいからね。千尋は何にするの?」「それじゃ、私はビーフシチューで」「うん、それもとっても美味しそうだね。じゃ注文しよう。すみませーん」渚は手を挙げて大声で声をかけると女性店員がやってきた。「ご注文はお決まりですか?」「オムライスとビーフシチューをお願いします」渚が注文をし
「あの……」千尋が近づいて声をかけると青年は弾かれたように振り返り、目を大きく見開いた。自分を見た時の男の表情の変化に気付きながらも千尋は話しかけた。「ひょっとしてこのお店で働く原さんのお友達ですか? もうすぐ原さん、出てくると思いますけど、呼んできましょうか?」青年は黙って千尋を見つめていたが、やがて徐々にその顔には笑みが浮かんできた。「あの、どうされましたか?」「会えた……」青年の口が開いた。「え?」「やっと、君に会うことができた。……千尋」まるで子供のように、ニッコリ笑う。「どう……して私の名前を知ってるんですか?」「僕の名前は渚……間宮渚」「間宮……渚……?」千尋は名前を口にして渚の顔を見上げた——****「ほら! 先輩、しっかり歩いてくださいよ!」里中はすっかり酔い潰れてしまった近藤に肩を貸して夜の街を歩いていた。「う~ん……もう飲めない……」むにゃむにゃと呟き、殆ど眠っている状態の成人男性に肩を貸すのは容易ではない。「全く! たかだかあの程度の酒で酔うなんて信じられないぜ」ぶちぶちと文句を言う里中。結局あの後ビールで気分が良くなったのか、里中が止めるのも聞かずに近藤は日本酒やらハイボール等を飲んでしまい、完全に潰れてしまったのである。そこで里中は悪いとは思ったが近藤の上着をあさり、財布を見つけると会計をしてしまった。「勝手に支払いしてすみません」里中はレシートの裏にメモを書くと近藤の財布に戻し、カウンターで酔いつぶれている近藤の肩を揺さぶった。「ほら、先輩。帰りますよ」「んあ?」近藤は頭を上げた。「しっかりして下さい、帰りますよ。ほら、立てますか?」近藤の腕を掴んで立ち上がらせた。「うん、うん。俺は大丈夫だ。1人でお家に帰れるのだー!」店内に酔っぱらった近藤の声が響き渡る。一緒にいる里中は恥ずかしくてたまったものではない。「分かりましたから、そんな大声で喚かないで下さい。ちゃんと聞いてますから」「うん、うん、さすが俺の後輩。聞き訳がよろしくて結構である!」赤ら顔でうなずく近藤を見て、4里中はもう二度とこの男とは一緒に酒を飲むのはやめようと心に決めたのであった。 近藤の肩を貸して歩きながら居酒屋での恥ずかしい顛末を思い出し、里中は頭を振り、記憶から追い払おうとした。「俺1人じゃ先輩
17時半—― 里中は近藤と居酒屋に来ていた。「ほら、お前との約束通り今夜は俺が奢ってやるから好きなだけ飲め!」近藤は機嫌良さそうに言った。「それじゃ、俺遠慮なく飲ませてもらいますからね。あ、つまみも勿論先輩が奢ってくれるんですよね?」「ああ、いいぞ。遠慮するな」「はい、それじゃ……」里中はメニューにざっと目を通すと手を挙げて大きな声で店員を呼んだ。「すみませーん!! 注文いいですか?」「はい、お待たせしました」学生バイトと思わしき男性がオーダーを取るハンディーを持ってテーブルにやってきた。「え~と……まずはジョッキで生ビール。あと鶏のから揚げと揚げ出し豆腐に枝豆。揚げ餃子にジャガバター、焼きおにぎりをお願いします」オーダーを受けた店員が去った後、近藤がきた。きた。「おい……お前そんなに頼んで食べきれるのか?」「食べれなきゃ注文なんてしませんよ」「いや、それにしても……そんな身体の何処にあれだけの量が食えるんだ?」里中は細身の体で、ジム通いしているので引き締まった身体をしている。「好きなだけ注文していいって言ったのは先輩じゃないですか」「いや、確かにそうなんだけどさあ……」「先輩は何も食べないんですか?」「え!? お前、あれ一人で食う気だったのかよ? てっきり俺とお前の2人分だと思っていたぞ?」「俺はそれでも構わないですけど? でも先輩、俺が頼んだメニューでもいいんですか?」「ああ、俺は好き嫌い無いからな。でも酒は注文するぞ」そして手を上げると近藤は店員を呼んだ。「生ビールグラスで」店員が去ると、里中は尋ねた。「……先輩」「うん?」「もしかして、アルコール苦手ですか?」「ハッハッハッ……何を言い出すんだ? 俺はアルコールは得意だ!」それから約1時間後—―「確かに俺の彼女は可愛くていい子なんだけどさ~。ちょっとだけ贅沢な所があるんだよ。デートの時お金出すのはいっつも俺だし……まあ、それはアレだな。男の方が金を出すのは当然かな? とは思ってるよ。でも毎回高級な店で食事したがるのはどうかと思わないか? ……あ、彼女のいないお前に聞いても分からないか……」たった1杯の生ビールで近藤はすっかり酔っぱらってしまい、顔を赤くしてブツブツと愚痴ばかり言っている。「からみ酒かよ……。あーもう面倒だなあ。確かに今の俺に
――翌朝7時 いつものように千尋は台所に立ち、お弁当の準備をしている。今日は遅番の日なので、普段よりは朝が遅めである。冷凍焼きおにぎりをレンジで解凍し、アスパラと人参を茹でてる間に卵を手早く溶き、水・めんつゆ・だしを加えてフライパンで器用にだし巻き卵を作り、皿に移す。それらを冷ましている間に朝食を食べる事にした。 最近千尋の朝は和食からパンに切り替わっていた。新しく商店街にコーヒーショップがオープンし、そこで挽いてもらったコーヒーを毎朝ドリップして飲むのが習慣となっていた。その為に朝食は自然とパンを食べるようになったのである。千尋が特に好きなコーヒーはコロンビア。甘い香りとコクが特に気に入っている。トーストにサラダ・コーヒーと簡単な朝食を食べ終わると、お弁当を詰めた。 「さて、そろそろ行こうかな」千尋は時計を見ると立ち上がった。戸締りを確認し、玄関のカギを閉めると千尋は出勤した。 千尋が去った後をじっと見つめている人物がいた。昨夜千尋の家を見つめていた青年だ。「……ごめん、千尋」青年は呟くと、千尋の家の門を開けて中へと入った——****「それじゃ、配達行ってきますねー」荷物を抱えた千尋が中島に声をかけた。「はい、気を付けて行ってきてね」中島に見送られ、千尋は軽トラックに乗ると出発した。今日は千尋の外回りの日である。届け先は全部で10か所。12月にもなると注文が増えて件数が多いので時間が結構かかってしまう。その為、今日はお弁当持参で外回りをすることになった。「え……と、最初のお客様は……」千尋はお届け先住所をナビに打ち込んだ。「よし、それじゃ行こう」ルートが設定すると千尋はアクセルを踏んで車を走らせた——**** 千尋が全ての配達を終えて店に戻ってきたのは16時を過ぎていた。「ただいま戻りました」「お疲れ様、千尋ちゃん」出迎えてくれたのは花の手入れをしていた渡辺だった。 「お店、混みませんでしたか?」「うん、忙しかったけど大丈夫だったわよ。店長も原君もいたしね。それよりも、千尋ちゃんがいない時に男の人が訪ねてきたわよ」「男の人? 私にですか?」そこへ接客を終えて中島がやってきた。「すっごく格好いい若い男性だったわよ~。いつの間に彼氏なんて作ってたの?」「え? ちょっ、ちょっと待って下さい。私彼氏なんていませ